横浜Denaベイスターズの加藤響選手に注目が集まりますね!
加藤選手は東洋大学に進学しますが大学4年生になるタイミングで野球部を退部し徳島県の独立リーグに挑戦した異例の経歴をお持ちの選手です!
なぜ加藤選手は東洋大学の野球部を退部したのでしょうか?
今回はその理由についてまとめていこうと思います!
最後までお願いします(^^♪
加藤響の退部理由はなぜ?

大学時代に挫折をしたため
加藤響選手は、高校時代に東海大相模の主力として活躍し、高校通算35本塁打を記録するほどの実力を誇っていました。
東洋大学に進学後も順調にキャリアを積むかに思われましたが、1年春に試合出場を果たしたものの、チームが最下位に転落し、2部降格を経験します。
再び1部復帰を果たしたものの、自身の出場機会は2試合2打席のみと限られ、大きな挫折を味わったようです。
この経験が加藤選手にとって大きな転機となり、一時は「野球をやるつもりがない」とまで考えるようになったと語っています。
大学のレベルが高く成績も伸び悩んでいた
高校時代は「超高校級」とも称されるほどの選手でしたが、大学では思うように結果を残せませんでした。
東都大学リーグは全国でも屈指のレベルを誇るリーグであり、1部リーグでの競争は非常に激しいものです。
特に東洋大学のような名門校では、実力者が揃うため、試合に出続けることは容易ではなかったようです。
高校時代の輝かしい実績があったからこそ、大学での伸び悩みはより一層大きなストレスとなった可能性があります。
高校時代の活躍で少し天狗になっていたとも
加藤選手自身が「高校時代は少し天狗になっていた部分があった」と振り返るように、東海大相模時代は自信に満ち溢れていたことが伺えます。
阪神からドラフト1位指名を受けた森木大智投手から本塁打を放つなど、高校時代の実績は素晴らしいものでした。
しかし、大学では思うように活躍できず、厳しい現実を突きつけられたことで、精神的にも大きな変化があったのではないでしょうか。
周囲の支えもあり独立リーグで復活へ

一時期は野球をやめようと考えていた
大学での挫折を経験した加藤選手は、一時期「野球をやるつもりがない」とまで考えていたようです。
高校時代はエリートコースを歩んでいただけに、大学での伸び悩みは相当なショックだったことが伺えます。
しかし、そんな状況でも加藤選手の才能を惜しむ人は多く、周囲の支えによって再び野球と向き合う決意を固めることに至ったようですね。
周囲のサポートもあり大学に在学しながら独立リーグに挑戦
最終的に加藤選手は東洋大学に在学したまま、四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスに入団するという道を選びました。
大学を完全に辞めるのではなく、学業と野球の両立を選んだのは、今後のキャリアを考えた上での決断だったと考えられます。
かなりハードな生活を送っていたことが想像できますね。
独立リーグでは心身ともに成長
独立リーグでのプレーを通じて、加藤選手は「心を磨く」ことの大切さを学んだと語っています。
高校時代の成功体験にとらわれるのではなく、厳しい環境の中で新たな挑戦を続けることで、精神的にも成長を遂げられたと語っております。
独立リーグを経験し心身の成長ができたことでプロ野球選手となる事が出来たようですね。
まとめ
今回は横浜Denaベイスターズの加藤響選手の大学野球部の退部理由についてまとめていきました。
加藤選手は
- 加藤響選手は東海大相模時代に輝かしい実績を残し、東洋大学に進学するも、試合出場の機会に恵まれず大きな挫折を経験。
- 競争の激しい東都大学リーグの中で思うように成績を残せず、一時は「野球をやめるつもりだった」と語るほどの苦境に立たされた。
- 高校時代は「少し天狗になっていた」と本人も認めるほどの自信家だったが、大学での挫折を経て精神的に成長。
- 最終的に大学に籍を残しながら四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスに入団し、野球を続ける道を選んだ。
- 独立リーグでの経験を通じて「心を磨く」ことの大切さを学び、大きく成長しプロ入りを果たす
以上のことが分かりました。
一度大きな挫折を経験している加藤選手であれば厳しいと言われるプロの環境でも戦って行けそうですね!
加藤選手の活躍が楽しみですね(^^♪
最後までありがとうございました(^^♪
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